代表的な所説を取り上げてみました。五十音順です。また、「・・・」は中略を表します。
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小和田 哲男 氏 [おわだ てつお] 【戦国武将】
一つは・・・(佐久間・林ら重臣の追放)という事態をまのあたりにし、いずれ中国征伐が終ったあたりで捨て殺しにされるかもしれないという危惧をいだきはじめていたのではないかと考えられる。
(また)政権は源氏と平氏が交代でとるという考え方である。特に有識故実に通じていた光秀は、自分が土岐源氏の流れをひく明智氏であることに自負をもっていたであろう。
本能寺の変がおきる約一ヶ月ほど前に、信長を征夷大将軍に任命しようという朝廷側の働きかけがあった。私は、このことが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかと考えている。・・・つまり、将軍には源氏しか任命されてこなかったそれまでの原則をふみにじる平姓織田信長の将軍任官は、源氏である明智光秀にとっては許しがたいことではなかったかということである。
・・・その意識と、それまでの怨みやら、信長から捨て殺される不安とか、ライバル秀吉に追い越される焦りとかがまぜあった形となり、たまたまわずかの供で本能寺に泊っている信長を討とうという気になったのではなかろうか。
Apr/19/1997
桑田 忠親 氏 [くわた ただちか] 【明智光秀(桑田)】
史学的には余り良質とは思えない、江戸時代に書かれた雑書に見られる、・・・光秀迫害の話も、まんざら、否定できない・・・。そのような肉体的な迫害や恥辱だけでなく、精神的な迫害や恥辱も、いろいろ、信長からあたえられたに相違ない。信長の重臣としての光秀の立場をなくし、面目を傷つけ、または、赤恥をかかせるようなことも、さぞ多かったであろう。
明智光秀は、いやしくも教養のある、インテリ武将であった。その面目をふみにじられて、いつまでも、ふみにじった人間にあたまをあげられないような・・・足蹴にされても、知行をふやしてもらえば、それで我慢するといった腑抜けではなかった。だから、おおげさに言えば、光秀は武道の面目上、主君信長といえども、これを、できるだけ成功し得る方法で打倒し、その息の根をとめ、屈辱をそそぎ、鬱憤を晴らした、といえなくもないのである。
こういうと、一種の怨恨説になってしまうが、単なる恨みではなく、武道の面目を傷つけられた怒り、というところに、武将としての光秀の立場が、よく理解されるのではなかろうか。
Mar/16/1997
高柳 光寿 氏 [たかやなぎ みつとし] 【明智光秀(高柳)】
信長は天下が欲しかった。秀吉も天下が欲しかった。光秀も天下が欲しかったのである。・・・
いくら光秀が天下を欲しがっていたところで、彼は信長の部下に過ぎない。・・・光秀は信長と争い得る兵力はない。けれども機会さえあれば信長を倒し得ないことはない。今やその機会が与えられたのである。
信長は近臣数十人を率いて(いるに過ぎず、)信忠は馬廻りだけで(あり、滝川も柴田も羽柴もそれぞれ当面の敵と対峙していて、仮に信長を倒した自分を攻撃して来るにしても)三十日、五十日を要すると見て差支えない。・・・このような状態で、いま信長を倒すことはたやすいことである。・・・信長を倒すのには、今のような時期はまたと来ないであろう。天下を取るのは・・・今をおいてほかに機会はない。こう光秀は考えたのではなかろうか。・・・
(そう考えるに至った理由は)まず第一に・・・ライバル秀吉の躍進振りである。・・・(これまでは)大体光秀の方が秀吉よりも(出世の点で)先行して来た。ところが・・・最近の形勢は・・・秀吉の方が先行するような気配がないでもない。・・・そして信長の性格についても考えたであろう。・・・信長は何を考え、何をたくらみ、何をするか見当がつかない・・・(佐久間)信盛・(林)通勝の追放(などを考えると)・・・家臣は安心して信長の下では働けない、・・・もうこの辺が止りだ、そんな気がしたのではないかと思う。
Mar/18/1997
武光 誠 氏 [たけみつ まこと] 【戦国の名脇役たち】
私は、明智光秀は信長との主従関係をこえる大義のために立ったと考えている。天正10(1582)年に武田勝頼は滅び、毛利輝元が信長に降るのは時間の問題となった。あと一歩で、信長は日本を統一する。
そのとき、公家たちは信長に対抗できる大名がいなくなれば、信長は皇室の利用価値がなくなったと考え、天皇にとって代わろうとするのではないかと恐れた。いまのうちに信長を除かねばならない。そう思った公家たちは、信長の家来で、自分たちに最も近い位置にいる明智光秀を使うことにした。
このとき、光秀と親しい堺の豪商、津田宗久らが公家たちの意向を受けて謀反をすすめたと思われる。
Apr/20/1997
徳富 蘇峰 氏 [とくとみ そほう] 【織田信長(徳富)】
既に信長のために、働くだけは働き、また信長より、得るだけは得ている。この上は自ら信長に取って代わるも、また丈夫快心のことではあるまいか。・・・
・・・信長と、光秀とは、どこやらそりの合わぬところがあった。光秀は・・・何事も腹へ腹へと、持ち込む流儀であった。信長は直截屋であった。前提よりも結論からやり出す流儀であった。信長の怒罵・嬉笑を、平気の平左で、行雲流水に付し去る秀吉とは違い、・・・信長との干係を、現金勘定にせず、ただ帳簿上の勘定とした。すなわちこれが十数年間、溜りに溜まって、光秀と信長との間に、一個の障壁が出来上がったのだ。加うるに安土における不首尾(家康の接待をすることなく出陣を命じられた、と解釈する)については、胸中の不平・懊悩やるせなかった。すなわちかかる場合において、光秀はたちまち一場の活路を得た。それは別儀でない、本能寺打ち入りである。これは思いがけなくも、信長が光秀に与えた、好機会であった。・・・
信長既に義昭に代る、我豈(あ)に信長に代るべからざる理あらんや。織田はこれ尾州武衛家の被官--つまびらかにいえば、被官中の被官--にあらずや。我は土岐の庶流なれば、織田に代りて、天下を管領するに、なんの不可かこれあらむと。
Mar/29/1997
林屋 辰三郎 氏 [はやしや たつさぶろう] 【日本の歴史】
直接の動機は、・・・家康の御馳走役をつとめる光秀にたいして信長があたえた屈辱である。・・・家康の饗応に心をつかった信長が、家康の宿とした明智館に見舞ったとき、夏季のため用意の生魚がいたみやすく、悪臭を放っていたので、信長はひじょうに立腹し、料理の間にじきじきに出かけ、このようすにては馳走役は勤まらぬというのでただちに改役したという一件である。・・・
これまでは光秀はだいたい秀吉の一歩先を歩いてきていた。しかし光秀にはその位置をいつまで保ちうるか自信がなかった。・・・そこに加算されたのが、光秀が四国で長宗我部氏側に取次ぎをしていた失点である。・・・追討ちをかけるように備中の秀吉への援軍という命令がもちこまれたのである。その前途には毛利氏があり、そこにはかつて自分の手で天下への道を導いたこともある(足利)義昭が推戴されているとすると、光秀も考えざるをえなかったであろう。
こうして信長打倒、謀叛の気持が急速に大きくなっていった。謀叛の真因は何か? 天下が欲しかったから・・・。かれが元亀・天正の武士である以上、あまりにも当然のことである。やはり安土での直接の動機となった怨恨から謀叛までには、単に欲望とはいいきれぬ苦悩もあれば思案もあったといわねばならない。
May/17/1998
藤本 正行 氏 [ふじもと まさゆき] 【信長の戦国軍事学】
(武田討伐後)当時五十八歳の滝川一益が、占領直後で治安状態の不安な関東に派遣されたことは、少なくとも四十の半ばを越えていたとみられる光秀の心理に影響を与えたと思う。
信長と毛利氏の戦いが続く限り、光秀自身も戦い続けなければならないし、信長が勝てば、中国はおろか九州にまでも派遣されることになりかねない。実際、彼は天正3(1575)年7月に、信長の要請により、朝廷から九州の名族である惟任の姓を許され、日向守にも任じられているのである。信長政権の構想を考えれば、彼が将来、九州に派遣される可能性は充分にあった。
筆者は、仮に光秀が・・・将来に不安を感じていたとすれば、その原因は佐久間信盛追放の一件などよりも、滝川一益の関東派遣にあったのではないかと思う。光秀の経歴・力量をみれば、彼が信長の処断におびえる理由が見当たらないからである。
・・・彼のように文化の中心地である畿内で長く暮らした教養人にとって、老後を西国で送ることは、想像しただけでも苦痛であったはずである。特に新領地の経営の困難さは、・・・丹波平定の過程で、身に染みていたであろうから。彼をして謀反に踏み切らせた動機は様々に考えられるが、心理の片隅に以上のような不安が介在していたと考えるのは穿ちすぎであろうか。
Apr/20/1997
二木 謙一 氏 [ふたき けんいち] 【日本の歴史】
天正10(1582)年の春頃からであろうか、光秀は、信長の自分に対する態度が急に冷たくなったことを感じ始めたと思われる。原因ははっきりつかめないが、あるいは羽柴筑前守秀吉というやり手が、信長の気に入りとなったことと関係があるかもしれない。
信長も、・・・光秀の行政手腕を利用してきたが、彼よりもすぐれた秀吉を重んずるようになった結果、光秀は反故のように捨てられたのである。天正10(1582)年5月、家康饗応の直後、光秀は領国丹波一国を取り上げられ、代りに毛利領の出雲・石見の二カ国を切り取り次第で与えるという空手形を渡され、西国出陣を命じられたのである。不要になった行政官の哀れなる左遷であったといえよう。
・・・戦国乱世では、切り取り次第の功名が普通であった。ふりかかる禍を常に武略・計略をもって福に転じて生きなければならなかったのが戦国のならいであった。光秀がこの大難を切り抜けることができなかったのも、彼が槍一筋に生きた戦場の勇者ではなく、実務派型の武将であったからであろう。
光秀の反逆は間接的には怨恨もあろうが、その根本は信長に見捨てられ、乱世を生き抜く自信を失った実務派型武将のノイローゼ的反抗と考えている。
Mar/16/1997
古屋 裕信(振屋 裕恒) 氏 [ふるや ひろのぶ] 【覚え書きノート・覚え書きノート[訂正・加筆]】
周知のことですが、前権中納言山科言経(四十歳)は、その日記に、「斎藤(内)蔵助、今度謀反随一也」(六月十七日条)と書いています。この一文は、・・・彼(利三)が本能寺の南面で闘いの指揮をとっていたのを洛中の民衆が注意深く見守っていたことを示す字句と私は考えています。信長謀殺を直接に指揮したのは斎藤利三だと私は思っています。・・・
利三における危機感は何であったのか? 利三において背骨を揺さぶるような事態とは何であったのか? ・・・「配下の大名の所領支配にまで干渉する」信長の「武士道」と、光秀、及びその家臣団が背骨とする旧来の「武士道」との(イデオロギー上の)対立、ということです。・・・
織豊政権による「検地・指出し」施行に対する国人衆、寺院の抵抗はあなどり難く、ために豊臣秀吉は天正十八年、即ち東国平定=天下統一を実現するまで、検地を行うについては(国人層を刺激せぬよう)細心の注意を払わねばなりませんでした。・・・
丹波の国人層は比較的古い体質をもっていたと思われるのですが、「城割り」「検地」「国人層の粛清」を通じてそれまでと全く異質の世界が現出していくのを彼らはどう受けとめたのでしょうか? 「本能寺の変」の中に「国人層の検地反対一揆」的契機を読みとることはできないか? と思うのです。
詳しくは、[本能寺・妙覚寺襲撃の謎]をご覧下さい。
Dec/21/1998
フロイス 氏 [ルイス・フロイス] 【回想の織田信長】
信長は・・・その権力と地位をいっそう誇示すべく、三河の国王(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対(意見)を言われることに堪えられない性質であったので、人々が語るところによれば、彼(信長)の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したのかも知れぬし、あるいは[おそらくこの方がより確実だと思われるが]、その過度の利欲と野心が募り、ついにはそれが天下の主になることを彼(光秀)に望ませるまでになったのかもわからない。(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである。
May/25/1997
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史料に見える諸説を並べました。主として【明智桑田】【明智光秀(高柳)】を参考にさせていただきました。
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『総見記』『柏崎物語』
天正6(1578)年、丹波攻略を進めていた光秀は八上城を攻めたが、守将の波多野兄弟が一年以上にもわたって頑強に抵抗したため、翌天正7(1579)年6月、兄弟の助命を約束し、その保証に光秀の母親を人質として八上城に入れることで開城させた。ところが、安土に送られた兄弟ら三人を、光秀の要請にも拘らず信長は磔にしてしまった。これを知り違約に怒った八上城兵は人質となっていた母親を殺し、城外に打って出てことごとく討死にしたという。そのために光秀は信長を怨むことになった。
『川角太閤記』『祖父物語』
天正10(1582)年3月、甲斐征討の際、法華寺の陣所にあって、諏訪郡を制圧した戦果を祝い光秀が「これまで骨身を惜しまず働いてきたことが報われた」と語ったところ、信長は「その方、どこで骨を折ったのか」と詰問し、光秀の頭を欄干にこすり付け、さんざん打ちのめした。
『川角太閤記』
天正10(1582)年5月、甲斐征討戦の戦功により駿河を与えられた家康が、御礼言上のため安土に伺候することになり、信長は光秀に休暇(出陣の体勢を解くこと)を与えその接待を命じた。当日、信長が膳の支度の具合を確認するために光秀邸に赴くと、夏場のこともあって生魚が傷んでいたとみえて、悪臭が漂ってきた。信長は激怒し、光秀に接待を任せられないと役を堀秀政に替えた。面目を失った光秀が、用意した肴や器を堀に投げ込んだため、安土城下中に腐臭が漂った。そのため、急遽休暇を召し上げられ、秀吉救援を命じられた。
『義残覚書』『続武者物語』『柏崎物語』
柴田勝家ら重臣二十人ほどが揃った庚申待の酒席、途中で厠に立った光秀を見咎めて、信長はその横着ぶりを罵り、鑓を取って後を追うや、その穂先を光秀の首筋に当てて「いかにきんかん頭、なぜ中座したか」と責めた。
『続武者物語』
斎藤内蔵介利三は、初め美濃の稲葉一鉄の家臣だったが、後に一鉄のもとを去り、光秀に仕え重用されるようになった。一鉄は光秀の主筋の信長に、利三を戻すよう訴え出た。信長は一鉄の訴えを認めて光秀に利三を返すよう命じたが、光秀は譲らず、怒った信長が光秀の髻を掴んで突き飛ばし、手打ちにしようとした。
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