徳川家康 とくがわいえやす (1542~1616)戦国・安土桃山時代の武将,江戸幕府の創設者・初代将軍。
〔東海一の大大名〕 三河国(愛知県)岡崎の城主松平広忠の子で,幼名は竹千代。おさないころから駿河国(静岡県)の今川氏の人質となり,駿府(今の静岡市)で十数年間の人質時代をすごした。1560年,桶狭間の戦い*で今川氏がやぶれると,岡崎に帰って自立。やがて織田信長*と同盟をむすび,三河の一向一揆を平定して,松平の姓を徳川とあらためた。このあと,三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗したほかは数度の合戦に勝利し,1582年までに三河・駿河国 ・遠江国 (静岡県)・甲斐国 (山梨県)を手に入れ,東海一の大大名となった。
〔江戸幕府を開く〕 信長の死後,豊臣秀吉*が全国統一の戦いを始めると,これとたたかったが(小牧・長久手の戦い),のち和解し,秀吉の統一事業に協力。1590年の小田原平定後,秀吉から関東へうつることを命じられ,以後,江戸城を本拠として関東8か国の経営にあたり,五大老の筆頭で250万石を領有する最有力大名となった。さらに,秀吉の死後におきた関ヶ原の戦い*(1600年)に勝って天下支配の実権をにぎり,1603年,征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。
〔豊臣氏をほろぼす〕 家康はこのあと,わずか2年で将軍職を子の秀忠にゆずり,駿府に引退して大御所とよばれたが,いぜん政治の実権はにぎりつづけた。そして,多くのいいがかりをつけて豊臣方を挑発し,大阪の陣*で豊臣氏をほろぼして天下統一を完成(1615年)。これを機に武家諸法度*を制定して,全国の大名に対して幕府の命令にしたがわせるようにした。翌年,75歳で病死し,遺がいは駿府郊外の久能山にほうむられたのち,日光(栃木県)の東照宮に改葬された。
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