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熊本の維新

作者:未知  来源:维基百科   更新:2009-5-21 13:46:54  点击:  切换到繁體中文

 

護久と実学党政権

小説家徳冨蘆花は、作品『竹崎順子』の中で登場人物に「肥後の維新は明治3年に来ました」と語らせている。幕末の動乱や凶作に曝される熊本の民衆にとって、「御一新」と呼ぶに相応しい変革は明治3年を待たなければならなかった。

明治2年(1869年)の版籍奉還後、熊本藩も藩政と家政の区別や家臣団の改組などを行ったが、人事的には旧態を引き継ぎ、あまり積極的な改革を施さなかった。この攘夷派を抱え込んだままの熊本藩に新政府は不信感を募り、政府に属する細川護久らは対応を迫られ、知藩事を勤める兄・韶邦へ改革の必要性を説いた[72]。また同時期、実学党も行動を起こし、大久保利通や岩倉具視らとの接触を持って改革の必要性を実感していた。このふたつの動きは示し合わせたものではなかったが、目的が一致した両者は共同歩調を取る。

明治3年3月26日、細川韶邦は病気を理由に隠居を決め、5月8日に護久が藩主の座に就いた。護久は実学党とともに、竹崎律次郎や徳冨一敬が起草した改革に着手した。7月17日、改革綱領に則り上米など雑税を廃止する知事布告が出され、同時に民衆に対して過去の治世を遺憾とする声明を発表した。この、為政者として極めて珍しい反省の弁とともに実行された減税は、当時の農民に課せられる負役の三分の一に匹敵した。また、常備兵や鷹場の廃止も実施され、これらは庶民層から厚い支持を受けた。

また、新たに熊本洋学校と古城医学校(ふるしろいがっこう)を、現在の熊本県立第一高等学校がある場所に[73]設立した。洋学校はアメリカ退役軍人のリロイ・ランシング・ジェーンズを迎え明治4年(1871年)9月1日に開校した。そこでの授業はすべて英語で、旧制中学校程度の文学や歴史地理、数学、物理化学などをジェーンズひとりが講義した。同校は男女共学の全寮制であり、学校教育にとどまらず近代的な文化や生活様式を熊本に広める意味でも大きく役割を果たした。ただ、これら新設された学校は以前から存在していた時習館や再春館の系譜を継がず、完全に別なものとして創立された。このような形態は以後県政を握った政党によって繰り返されることになる。また、この洋学校はプロテスタント派キリスト教集団である熊本バンド結成の母体ともなった。学校の教師館はコロニア様式で建設された熊本初の洋風建築物であった[74]。

逆風

民衆には圧倒的に支持された実学党政権は、しかし改革要領に定めた役人公選制や議院設置は実行できなかった。鶴崎の毛利空桑や河上彦斎が、長州藩で農民一揆と結託し追われた大楽源太郎らを匿い、明治3年には密偵を斬る事件が明らかとなった。彼らは処罰を受け、熊本藩は政府に目をつけられた。細川護久は藩内に依然燻る反抗の気分に嫌気が差し、明治4年(1871年)3月、政府に辞意を示した。廃藩置県を目前にした政府は一旦慰留し、7月の実行を待ってこれを認めた。弟で参事の護美も同調し、辞職の上翌年にはアメリカへ旅立った。

新たに成立した熊本県の政務を実学党は維持するが、思わぬ逆風が彼らを襲うことになった。明治3年末、大分県日田郡で大一揆が勃発した。政府は周辺藩に鎮撫隊を派遣させ熊本も軍を送ったが、当地で意外にも彼らは農民からの歓迎を受けた。一揆は、「肥後支配同様雑税免除」(熊本藩のような減税)を要求したもので[75]、農民にとって熊本軍は悪政に対する解放軍とみなされた。このような減税を求める一揆は鹿児島県を除く熊本周辺の各国で1873年(明治6年)頃まで頻発した。これは新政府にとって好ましからぬ事態であり、熊本県に安岡良亮を派遣して実学党を県政から排除した。

中途に終わった短い期間だったが、熊本の維新は民衆には強く歓迎された。その痕跡を、10基ほど確認されている「知事塔」に見ることができる。現在の産山村や阿蘇市および大分県にも見られるこの石塔は、地域では「チイさん」「チシさん」とも呼ばれ、細川家の九曜紋と「村々小前共江」の文が刻まれている共通点が見られる。これらは明治初期に建立されたものや、もっと時代が下り建てられたものもあるが、いずれもかつてない減税措置に踏み込んだ県政に対して感謝を、またはその後苛烈に廻った政策に苦しみ過去を懐かしむ想いから地域が出資して作られたと考えられている。

熊本洋学校の男女共学制は海老名弾正など一部上級生の反発を招いたが、逆にジェーンズに説得されて賛同側に廻った。女性第一期生の徳富初子と後に海老名の妻となった横井みや子らは、後に熊本女学校(現:熊本フェイス学院高等学校)や東京の女子美術学校(現:女子美術大学)創立にも大きく関係し、女性の社会的活動を広げる役割を担った。しかし、革新的な西洋風そしてキリスト教色が強い学風は危惧の眼で見られた。学内はキリスト教派と反対派に分裂し、大激論が展開された。さらに、子弟のキリスト教帰依を好ましく思わない実学党のメンバーも棄教を迫った。明治9年(1876年)、この状況に見切りをつけたジェーンズは、海老名弾正らキリスト教派生徒35名を京都の同志社へ入学させ、熊本を去った。同年9月、熊本洋学校は閉鎖された。

一方の古城医学校は、私立熊本医学校、熊本医科大学を経て1949年(昭和24年)に熊本大学医学部となった[76]。この医学校からは、北里柴三郎と助手の石神亨[77]、フローレンス・ナイチンゲールに影響を受け産婆看護婦学校設立に寄与した佐伯理一郎[73]らが育った。

自由民権運動の端緒

1873年、新政府内では征韓論争が巻き起こっていた。勤皇党出身の宮崎八郎は上京中に『征韓之儀』を上奏し、また台湾出兵では義勇兵を募るなどの行動を取っていたが、やがて反権力思想を強めた[78]。彼は中江兆民の『民約論』に大きな影響を受けて自由民権運動に身を投じ、1875年(明治8年)に熊本県初の中学校となる植木学校(第五番変則中学校[79])を設立した。ここではルソーやギゾーまたモンテスキューらの思想を教え、また県内外にオルガナイザーを派遣する拠点ともなった。なお、八郎の弟・宮崎滔天もまた民権運動に携わり、その後アジア革命に関わって亡命中の孫文を支援し、兄弟の生家に招くなどした[80]。

植木学校設立と同じ年、東京で開催された地方官議会では「地方民会の事」が議題となり、同時に行われた区戸長会議は「民会興隆之事」を諮問した。この動きを受け、熊本でも民権運動が盛んになり始めた。これには県政を追われた実学党も加わって、民会開設を求める論説が『熊本新聞』に掲載されるなど、世論を喚起する行動も見られた。この動きを受け、1876年(明治9年)、熊本県は「臨時民会規則」を制定した。これはきわめて進歩的な制度であり、男子戸主すべてに選挙権が与えられ、選出された小区議員が、その互選で大区議員が、そしてさらに互選で県民会の議員が選出されるものだった。同年10月に植木学校は閉鎖されるが、同校に拠った民権運動家たちは結社を設け、運動を継続した。


 

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