林桜園に始まった勤皇党の一派に「神風連」(敬神党)があった。彼らは宮崎八郎のように民権運動への転換からも取り残され、不満を和らげるために県内の神社で神主職を任命されるなどしていたが、政府の有司専制や欧化政策を常々苦々しく思っていた。そこに1876年廃刀令が布告され、鬱憤が爆発し反乱を起こした。10月24日、神の信託(宇気比)を授かったとして総帥・太田黒伴雄、副師・加屋霽堅の下約170名が終結して決起し、熊本城敷地内の熊本鎮台を攻め火を放った。彼らは鎮圧され多くが自刃または処罰されたが、この神風連の乱は江藤新平らが起こした佐賀の乱ともども士族反乱を誘発し、また明治六年政変以後薩摩に下っていた西郷隆盛の動向に注目を集める結果ともなった。