一方、2月22日に植木で乃木希典率いる政府軍と接触した薩軍小隊はこれを急襲。官軍を敗走させ連隊旗を奪いもした。翌日も両軍は交戦し、一時退却を試みた官軍を追い薩軍は攻撃をかけた。福岡から南下中の第一・二旅団は一個中隊を急がせ25日には高瀬を抑えた。同日午後高瀬川を挟んだ戦闘となったが、この際には官軍は持ちこたえて薩軍は退却した。26日反撃を開始した官軍は歩兵第14連隊が田原坂まで敵を押し返した。だが兵糧不足を理由に退却の命が届き、しぶりつつも連隊は引き返した。この時官軍が退却せず田原坂を抑えていれば、後の凄惨な戦いは防げたのではと指摘されている。
2月22日深夜、政府軍の動向を知った西郷隆盛ら薩軍首脳は長囲策に転じ、軍を分けて北へ兵力を差し向ける決定を下した。北から熊本へ向かう路は3つあり、山鹿から南下するルートには四番大隊、高瀬から田原坂を越え植木に至るルートには一番大隊、吉次越ルートには二番大隊と六・七連合大隊が当たることとなり、25日に出発した。一方薩軍の動きを察知していた政府軍だが、慎重な山縣有朋はすぐに攻撃を指示せず、態勢整備を優先した。第14連隊と近衛歩兵第1連隊の一部を田原坂方面に、残りの近衛歩兵と東京・大阪鎮台兵を吉次峠方面へそれぞれ配置し、3月3日に進軍を開始した。
3月4日、田原坂に総攻撃を仕掛けた政府軍は、天然の要害に拠った薩軍の一斉射撃を浴びて思うように進めない。吉次峠はさらに凄惨で、畑には死体が積みあがり、側溝には血が溜り、夥しい銃弾のせいで木々は蜂の巣のようになった[82]。薩軍も篠原国幹が戦死するも意気は衰えず、敗走する官軍は吉次峠を「地獄峠」と呼んだ。翌日から一部隊を吉次峠に残し、政府軍は田原坂に集中、一進一退の攻防が続くことになる。
警視抜刀隊の活躍によって少しずつ戦局を有利に進めた政府軍は、雨の3月20日に総攻撃を仕掛けた。砲撃と雨に強い後装式スナイドル銃(en)が威力を発する官軍に対し、薩軍が主に用いたエンピール銃は雨に弱く[83]、さらに弾丸に事欠いて付近住民が拾い集めた弾を買い集めたりする状況の中、田原坂を突破され後退を余儀なくされた。記者として従軍した犬養毅は激しい銃撃戦のために木々や電柱が砕け散った模様を伝えた。田原坂に入った山縣有朋は、その攻めがたい急峻さと狭窄さを実感し、将兵の死に涙を流したという。
3月21日には山鹿の四番大隊も敗れ、後退した薩軍は植木・木留で官軍を迎え撃った。一進一退の攻防が続いたが、やがて政府軍が優勢となり、薩軍は辺田野・荻迫(現:JR植木駅周辺)まで退く。この頃には、政府軍がドイツから購入していた風船爆弾投入に乗り出したとの説もある[70]。しかし戦局は膠着に陥り、官軍内では迂回して進軍する案も出された。しかし4月15日午後1時、熊本城と衝背軍の連絡を知った薩軍は撤退を始めた。