河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)は、日本の戦国時代に、河越城周辺で起きた戦いのこと。ここでは、関東の政局を決める大きな戦いとなった天文15年(1546年)の戦いについて述べる。この戦いは「河越夜戦」とも称され、桶狭間の戦いや厳島の戦いとともに日本三大奇襲に数えられている。北条氏康軍と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍が武蔵国の河越城(現在の埼玉県川越市)の付近で戦闘し、北条軍が勝利を収めた。
背景
室町時代後期から、関東地方の覇権を巡り、古河公方と関東管領が対立し(享徳の乱)、さらに関東管領の上杉氏の内部において関東管領を世襲する山内上杉家と相模、武蔵を地盤に力をつけた庶家の一つ扇谷上杉家とが対立(長享の乱)してきた。その間隙を縫い、扇谷上杉家領であった相模において北条早雲が台頭、扇谷方の大森氏、三浦氏を滅亡させるなど勢力を広げた。早雲の子の北条氏綱は、永正の乱で古河公方、関東管領双方が内紛で混乱する中、武蔵に進出し、江戸城、さらに扇谷上杉家の本拠の河越城を落とすなど扇谷上杉家を滅亡寸前まで追いつめていた。氏綱が没すると、古河公方、関東管領(山内上杉家)、扇谷上杉家の三氏は同盟を結び反攻を開始、一部の北条方の武士を除く関東の武士すべてに号令をかけ、北条氏康を攻撃した。
戦いの経過
- 文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。
天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、古河公方足利晴氏の連合軍は約70,000(80,000とも)の大軍をもって北条家の河越城を包囲した(一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったともいわれている)。河越城は北条綱成が約3,000の兵力で守備しており、放置すればいずれ落城してしまう。氏康は本国から約8,000の兵を率いて救援に向かった。戦況は数ヵ月間膠着状態であったが、氏康の救援軍にいた福島勝広(北条綱成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。
氏康は上杉軍に対して偽りの降伏を申し出た。上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃したが、氏康は戦わずに兵を引かせた。これにより上杉軍は北条軍の戦意は薄いと思い込み、自軍の兵士が多いということもあり油断が生じた。
天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は自軍八千を四隊に分け、そのうち一隊を多目元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。そして氏康自身は残り三隊を率いて敵陣へ突入。子の刻、氏康は兵士たちに鎧兜を脱いで身軽にさせ、上杉連合軍に突入すると、上杉軍は大混乱に陥り、扇谷上杉家当主の上杉朝定は戦死した。しかし氏康が深追いした事を、後方より見ていて危険と感じた多目元忠は、法螺貝を吹かせて氏康軍を引き上げさせた。一方、城内では戦況を見守っていた綱成がこの時とばかりに足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入、氏康軍に気を取られていた足利軍は総崩れとなった。連合軍の死傷者は13,000人と伝えられている。
戦いの影響
この戦いの結果、当主を失った扇谷上杉家は断絶、敗走した関東管領の山内上杉家もこの後急速に勢力を失い、数年後には上杉憲政が居城の平井城を追われ、越後の長尾景虎を頼ることになる。同じく敗走した古河公方の足利晴氏もこの直後に御所を包囲され降伏、隠居し北条の一族である義氏に家督を譲ることを余儀なくされる。長尾景虎は憲政から上杉姓と関東管領職を譲り受け、一字拝領して上杉政虎と名乗ることになり、関東の覇権を北条家から奪い返すために関東征伐をおこなうも果たせなかった。
一方、北条家は関東南西部で勢力圏を拡大し、戦国大名としての地位を固めることになる。甲相駿三国同盟の締結により駿河今川家や甲斐武田家との対立に終止符を打つと、関東制覇を目指し越後の上杉家や佐竹家との抗争を始めてゆく。
その他
河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、合戦があったとされる年は史料によって異なったり、実際に夜戦であったかなど、不明な点が多い合戦でもある。合戦に勝った北条家からの感状類の現存が無いことから、大規模な合戦ではなかったとの説もあるが、戦場とされる地域から刀疵のある兜といった出土品があり、少なくとも何らかの戦闘自体はあったとされるのが一般的である。 なお、川越夜戦の激戦地と伝えられる東明寺(川越市志多町)の境内に河越夜戦跡の碑が建てられており、当時は一名を「東明寺口合戦」とも言われたと碑文に記述がある。