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熊本城攻防戦

川尻(河尻)に集結した薩軍は斥候の存在から官軍の方針を知り、作戦の検討が行われた結果熊本城強襲策が採用された。2月21日先行した薩軍の一部が熊本城東側で守備兵と戦闘となり、攻防戦は切って落とされた。翌22日、薩軍は熊本城を包囲し、正面(東側)と背面(西側)の両方から攻撃を仕掛けた。熊本城の弱点とされる背面は特に激戦の地となり、段山(現:段山本町)と法華坂(現:熊本YMCAから国立病院機構北側を通る坂)を襲撃する薩軍一・二・六・七番大隊と官軍の間で激しい戦闘が行われた。正面でも桐野利秋率いる四番大隊を始めとする部隊との銃撃・砲撃戦となった。薩軍は本丸へ続くわずか300m程度の法華坂を攻略できず、正面からの攻撃でも石垣に阻まれた。

22日には南下する政府軍と薩摩小隊との交戦情報がもたらされ、夜の会議で方針を転換し、一部強硬手段を残しつつも長囲策を採った。熊本隊や日向からの部隊も加わった攻め手側と鎮台側の攻防戦は3月に入っても続き、熊本城背面は特に激戦を極めた。片山邸(現:藤崎台県営野球場)や旧藤崎神社には砲弾が飛び交い、段山は薩軍に占拠されたが3月13日に官軍がこれを奪取した。また薩軍は城内に離反を促す矢文を放ったり、坪井川と井芹川の合流点を堰き止めて城の周囲に水を張る作戦を取り、篭城側をじわじわと攻めた。

しかしその頃、黒田清隆の建策が採用され、政府は勅使護衛兵を中心とした別働第二旅団を長崎から差し向けていた。3月19日、日奈久に上陸した部隊は八代を抑えた。薩軍は永山弥一郎を指揮官とする部隊を送ったが、官軍は31日には松橋を落とした。4月に入り、熊本城では兵糧の減少を危惧した谷が植木方向への出撃を思案した。しかしこれは参謀の樺山資紀らの反対を受けて取り消され、南から接近していた政府側衝背軍との連絡を試みることとなった。4月8日、突囲隊が薩摩の包囲網を突破し、宇土で政府軍と合流することに成功した。政府軍は12日に御船・甲佐を一斉攻撃し、14日には川尻まで進軍した。さらに陸軍中佐の山川浩は独断で部隊を進め、ついに篭城軍との連結に成功した。こうして、2ヶ月にわたる熊本城攻防戦は死者773名を出して決着し、加藤清正が心血を注いで築いた熊本城は初の戦でその堅牢さを証明した

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